量子コンピュータがもたらすビットコインの危機

量子コンピュータの実用化は、ビットコインの基盤を揺るがす最大の脅威の一つとされている。その懸念は「Q-Day」と呼ばれる一点に集約される。十分な性能を持つ量子コンピュータが登場すれば、公開鍵から秘密鍵を導き出し、他人の資産を自由に動かせてしまうのだ。
現在のビットコインは楕円曲線暗号に依存している。これは、秘密鍵から公開鍵を作るのは簡単だが、公開鍵から秘密鍵を逆算することは事実上不可能という一方通行の数学に支えられた仕組みだ。ところが、ショアのアルゴリズムと呼ばれる量子計算手法を使えば、この一方通行の壁を破壊できる。1994年に理論が発表されたこの手法は、公開鍵を入力すれば秘密鍵を出力する。
事態は深刻だ。BIP-361と呼ばれる業界提案の試算によれば、ビットコインの全供給量の34%以上が、既に公開鍵が露出したアドレスに保管されている。Q-Dayが来れば、これらのコインは誰でも動かせる状態になる。つまり、電子署名は所有者を証明する機能を根本的に失ってしまう。
BIP-361とは何か。凍結提案の全貌と賛否

この量子耐性の問題に対し、ビットコインのコア開発者であるジェームソン・ロップ氏ら6名が2026年4月に提案したのがBIP-361だ。内容は極めて大胆で、まず3年の猶予期間を経て、量子脆弱なアドレスへの新規入金をブロックする。さらに5年後には、残っているコインを完全に凍結するという2段階の計画である。
凍結対象には、ビットコインの生みの親であるサトシ・ナカモトが保有するとされる約110万BTCも含まれる。ビットコインの思想は、誰にも検閲されず、永久に所有権が保証されることだ。その核となる約束が、プロトコルルールの変更によって覆されることへの反発は非常に大きい。
凍結は「焼却」にあらず。回復への道筋
しかし、BIP-361は単なる資産の凍結案ではない。計画の後半部分には、ゼロ知識証明(ZKP)を用いた「回復パス」が約束されていた。ZKPとは、ある事実を知っていることを、その内容を一切明かさずに相手に証明できる暗号技術だ。BIP-361では、凍結されたコインの真の所有者が、自らの正当性を証明することで資産を回収できる仕組みが想定されていた。
ロップ氏は過去に、BIP-361を好んで書いたわけではないと公言している。より悪い代替案(管理不能なハードフォークの混乱や、量子攻撃による無秩序な資産流出)を避けるために、苦渋の選択として提案したものだ。今回、Project Elevenが発表した新たなツールは、この「約束されていた回復の仕組み」を具体的なコードとして示した初めての事例となる。
Project Elevenが示した現実的な回復ツール

量子技術の研究機関Project Elevenは、Binius証明システムのリード開発者ジム・ポーゼン氏と協力し、この回復パスを動作するプロトタイプとして完成させた。肝となる技術は、最新のウォレットが内部的に持つ「鍵の派生構造」をZKPで証明するという手法だ。
一方通行のハッシュが防御の盾になる
ここで話の前提となるのが、量子コンピュータが「ハッシュ関数」に対しては無力に近いという事実だ。ハッシュとは、入力データを固定長の指紋のような文字列に変換する計算で、量子アルゴリズム(グローバーのアルゴリズム)をもってしても、その安全性は半分程度にしか低下しない。最新のウォレットは、複数のアドレスを「木」のような階層構造(BIP-32という規格)で管理しており、この枝分かれの際に「ハッシュ関数を使った一方通行の処理」を用いている。
そのため、Q-Dayによって末端のアドレスの秘密鍵が解読されたとしても、攻撃者はその上の親鍵までは遡ることはできない。Project Elevenのツールは、この「親鍵を知っているのは真の所有者だけ」という点に着目する。ユーザーは凍結されたアドレスの秘密鍵そのものではなく、そのアドレスを生み出した派生経路の情報を知っていることをZKPで証明するのだ。これにより、署名を偽造されるリスクを回避しつつ、所有権を認証できる。
ノートPCで243ミリ秒。驚異的な処理速度
理論は以前から存在したが、今回の発表が注目を集める最大の理由はその実用性にある。同機関が公開したベンチマークによると、M5チップ搭載のMacBook Air上で、わずか243ミリ秒で証明生成が完了する。検証も40ミリ秒で終わり、メモリ使用量は約2GB。GPUすら必要としない。
これは先行研究と比較して飛躍的な高速化だ。汎用的なCPUのみの処理で910ミリ秒を記録しており、一度限りの初期セットアップを除いた実運用時の速度差は約60倍にまで広がるという。これまで「ZKPは重すぎてブロックチェーンには使えない」と考えていた開発者層に、強烈なインパクトを与える結果だ。
サトシの110万BTCはなぜ取り残されるのか

今回の技術は未来への扉を開いたが、ビットコインの歴史上最大の宝とも言えるサトシのコインには適用できない。これが本件の最も残酷な、しかし技術的に明快なオチである。
Project Elevenの証明システムは、アドレスの上位に「親鍵」が存在し、階層構造が成り立っていることが絶対条件だ。サトシがビットコインを採掘していたのは2009年から2010年にかけてのことで、2011年には既に姿を消している。この時期のウォレットは「Pay-to-Public-Key」形式であり、公開鍵がチェーン上に直接書き込まれ、そもそもシードフレーズも鍵の派生構造も存在しなかった。証明すべき親鍵がこの世にない以上、ZKPの出番もない。
この問題はサトシだけの話ではない。2012年2月のBIP-32導入以前の、最も古く休眠状態にあるコイン群すべてが同じ状況にある。BIP-361が想定する救済対象のまさに中心にいた層が、今回のツールから漏れ落ちてしまった形だ。
残された技術的・社会的ハードル

このプロトタイプが「銀の弾丸」とはまだ言えない。Project Eleven自身が認めるように、コードは未監査であり、Taprootなどの最新アドレス形式には非対応だ。また、証明の起点をシードではなくコインタイプキーに置いている点も、実運用には改善が必要となる。
さらに大きな壁はガバナンスだ。このツールを有効にするには、ビットコインのプロトコルルールを変更しなければならない。凍結にせよ解凍にせよ、ブロックチェーンの台帳を社会合意によって書き換える行為は、ビットコインコミュニティにとって最大のタブーであり続けている。
しかしながら、議論の形相は確実に変わった。これまでは「凍結とは破壊であり、ハードフォークへの強制だ」という反対意見が主流だった。だが、「自分だけが持つ種データを証明すればロックを解除できる」という具体的な道筋が示されたことで、凍結が「火あぶり」から「タイムロック」へと性質を変えつつある。つまり、BIP-361は資産を焼き捨てるのではなく、真の所有者にだけ鍵を渡す仕組みになり得るということだ。
今回の研究は、量子時代に突入しても価値を保全できる暗号通貨の姿を、おぼろげながら映し出したと言えるだろう。
この記事のポイント
- 量子コンピュータは公開鍵から秘密鍵を解読し、ビットコインの署名を無力化する脅威がある。
- BIP-361は量子脆弱なコインの凍結を提案し、後にZKPで回復する計画を含むが、コミュニティで議論が続く。
- Project Elevenは、ウォレットの鍵派生構造を用いたZKP回復ツールを実用的な速度で実装した。
- サトシ・ナカモトの約110万BTCや、2012年以前のコインは鍵派生構造がないため、このツールでは救済できない。
- プロトタイプは未監査であり、実用化には技術的改善とプロトコル変更という高いハードルが残る。

暗号資産とブロックチェーンの可能性を追求するエミリー。
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